もともとは集合住宅として利用されていたらしい、コンクリート造りのこの建物には、ほとんどの部屋のあるべきところに扉がなかった。留め具ごと外れたそれが足元に落ちている部屋もある。少年二人は壁一枚で隔たれ隣接した空間に、それぞれいた。先に立ち入ったのは、ゴンの領域。
「クラピカ!もういいの?」
「ああ……熱は下がった。心配をかけたな」
複雑そうな顔で彼はこっそりと私を見た。ちっとも大丈夫そうじゃないけどほんとうに起きてていいの?、そんなこころの声が聞こえるようだった。苦笑いを返す。言って聞くひとじゃあないでしょう?
ゴンの視線を追ってクラピカが振り向くより一瞬早く、表情を戻した。ふたたび正面に戻された視野の先で、ゴンが対応しきれずにあたふたとお茶を濁そうとする、なんとも微笑ましいその光景のなかにクラピカを残し、一人で隣の部屋に向かった。
続けて二回、壁を叩く。一応の礼儀として。
いくつかの家具は住居と共に打ち捨てられ、長い年月の経過を感じさせる見窄らしさを纏っていた。腰の高さしかない空っぽのチェスト。どこぞの切り裂き魔に襲われたみたいにあちらこちらが破けたソファ。それまで入り口付近の床を陣取って胡坐をかいていた少年は、私を招き入れるために立ち上がり、奥のソファへ座り直した。中の綿とも空気中の埃ともつかない微粒子が舞い上がる。
「入ってよかったの?秘密の特訓中だって聞いたけど」
「そうおもうなら始めからこっち来るなよ」
「私にだって社交辞令くらい言える」
わずかに頬が弛むのを抑えずそのままにしておいたら、キルアは顔いっぱいに驚きを浮かべてこちらを凝視した。信じられないものを見たとでもいうように。
「……なに?」
「え?……や、そっちこそ……てかおまえ、また俺の知らないとこでなんかあったろ」
「あったといえばあったし、なかったといえばなにもなかった」
にわかに愉しくなってきた。なにが、と聞かれれば首を傾げるしかないけれど。強いていうならば、言葉遊び、滑稽なじぶん、表も裏も見落とすまいとすばやく頭を回す少年の探るような眼、現実味が沸かないほどやわらかに過ぎる時間、そのすべてが。
「あいつ、やっと目ェ覚ましたんだな。ゴンの声丸聞こえ」
いいながら、隣の部屋につづく壁を見た。まともな返答は得られないと覚るや否や、あっさりと話題を転換する、この切り替えの早さこそが彼の魅力のひとつだった。
つい先ほど起き上がったばかりでまだ本調子ではないが、センリツと共に明日にも仕事に戻るらしい、それだけのことを簡潔に伝えると、「ふーん……で、アキは?」頃合を見計らうように質された。即座に、もしかして…、と考えるが口には出さない。もしかして、それが一番聞きたかったのかしら。
ふるさとに帰ること、ジンを探すこと、それから、少し気を引き締めて、もう過ぎ去った日々のこと。少し前にクラピカに伝えたことと同じ内容だったので、話の整理はついていた。唐突な身の上話を、キルアは最後まで遮らなかった。
「……で?」
「それでおしまい」
「じゃなくて。それを俺に聞かせる、その心は?」
「わからない……。聞きたくなかった?」
「べ、別にそういうわけじゃ、」
ないけど…、彼にしては珍しい、舌のうえで溶けてしまいそうな頼りない声でいった。少しの沈黙。思案顔のキルアが、やがて、ぽつりと私の名を呼んだ。
「こういうの、おれ、初めてでさ。……こういう、腹ん中で抱えてるものを見せてくれる、みたいなの」
だから、と、彼は続ける。ごめん、なんて言ってやればいいのかわかんねえ。
謝ってほしいわけでも、慰めの言葉がほしくて話したわけでもない。陰気な空気を呼び込みたいわけでも、同情がほしいわけでもなくて、ただ、知ってほしいとおもっただけ。どうしたら上手く伝えられるだろうか。わからなかった。私だって、こんなの、初めて。
「……私、ハンター試験を受けたのが今年でよかった」
いまじぶんがどんな顔をしているのかさえわからないまま、それはつまり、少なくとも意図的に作った表情ではないということだけれど、不思議とこころは軽く、装う必要を感じなかった。永い間見失っていた素直さをあっけなく取り戻せたような気分だった。
「あなたたちに会えてよかった」
すこし面食らったような顔をして、数秒後には、やはり素早く気持ちを立て直す。「……“たち”かよ」 不満げに呟いたその声は、ちっとも不満そうじゃなかった。
(2010/10/10)