汗と夕立、それと何かが

 着替えのためだけにあてがわれたホテルの一室は、清潔で、余所余所しく、とても広かった。ドレスがないことを理由に断ろうとしたのが、そもそもの失敗だった。予備などいくらでもある。
 用意されたサテン生地のドレスはカヴァーをかけたままベッドに転がしてある。金糸で小柄の花をあしらえたスカートの裾は、身につければふわふわと頼りなく揺れるのだろうし、ヒールのある華奢な靴は、きっとまともに走ることもできない。ため息が出そうだ。

 賑やかな場所は、じつのところ嫌いではない。けれども、アキは、その賑やかさを外側から見るのが好きだった。クライアントの願いを叶えた若いアマチュア・ハンターという仰々しい名分のもと、主賓としてパーティに臨むなど以ての外である。ちょっとした小遣い稼ぎのつもりが、とんだ茶番に巻き込まれてしまった。こんなことは初めてだった。波風立てずに逃げるタイミングを、だから、完全に逃してしまった。

 しかし、いつまでも服と睨めっこばかりしてはいられない。
 のろのろとそれに着替える間中、パーティに参加せずに報酬だけを受け取って帰る上手い言い訳を考えてみたが、これといって妙案は浮かばず、せめてここにジンがいてくれれば…、と、いまではもう連絡の取りようもない人間がいる場合といない場合との差を想像のなかで比べてみる。……さほど変わらないかもしれない。そう結論付ける頃には、身支度はすっかり整った。
 準備ができ次第、といわれていたので、会場までとくに急ぎはしないが、あまり遅れすぎるわけにもいかない。部屋を出る前に窓の外を見ようと立ち上がった。空の機嫌を知りたくなったのだ。
 動くたびにふとももの辺りを撫でる裏地の感触が、ひんやりと心地よい。腕も足も、思ったよりは動きを制限されないことだけ安心できた。外は、黒と橙を無理にかき混ぜたような色で染まり、変に明るかった。窓が開かないので空気のにおいを知ることはできない。でも、と彼女は予想する。空があんな色をしているなら、きっと、じきに一雨くるだろう。

 ドアの外にひとの立つ気配がした。ややあって、短いノック音と、丁寧な言葉遣いで迎えにきたことを告げる男の声がした。観念して、返事の代わりにそちらへ向かう。

 この広い庭を、たくさんのビルが立ち並ぶ都会の一角だとだれが想像できるだろう。必要以上に室温の高いパーティ会場から一歩外へ出れば、整然と並び植えられた植物たちに囲まれた、一見、緑豊かなスペースがあった。すみずみまで計算された、人工の緑。花のいちばん美しく見える角度で、葉の一枚一枚までが、太陽ではなくひとを追うようにしてこちらを向いていた。ほんとうの自然は、ひとなんて見ない。だけどここではだれも、そんなことは気にしない。
 建物のぐるりを半周すると、本日のメイン会場のほぼ裏手、灯りの消えた部屋の傍に、ひっそりと佇む噴水を見つけた。ちろちろと水の流れるそれは、きっと別のシーズンに本領を発揮するのだろう。申し訳程度のほの暗い照明が、いまのアキにはちょうどよかった。

 噴水の段差に腰をおろした。借り物だったドレスは、依頼の成功報酬の内として差し上げる、とのクライアントの言葉に甘えて好きにするつもりだ。汚れても構わない。
 彼女はすっかりくたびれていた。たった数十分参加しただけの煌びやかなせかいが、何時間分もの念の修練よりも、何倍も疲れる気さえした。
 指先を水面に向け、ほんの少しだけオーラを練る。くるくると渦を描いて、波紋の広がりを目で追った。すると微かに慰められるのだった。

「クレア氏の依頼に唯一成功したハンターって、君だろ?」

 飛び上がって後退しそうになる体を、一瞬の判断でなんとか抑えた。代わりに、警戒心を露わに相手を睨む。気配に気づけなかったのだ。声をかけられるそのときまで。

「俺は失敗しちゃって」

 人懐こく話を続ける男の、闇の色をした瞳から目をそらさない。
 彼は、当然のように隣に座った。黒い上等のスーツが水に濡れようが、その場の先客から刺すような視線を送られようが、構う体も見せずに。

「……なにが、目的?」
「どういう意味かな」

 にこやかに答えた。呑まれてはいけない、と、アキは気を引き締める。

「言い直しましょうか?それだけ澱みないオーラをまとっておきながら、失敗したなんて見え透いた嘘をつく理由は、なに?」
「嘘はついていない。余興のつもりでクレア氏の依頼を受けたが、途中で他の目的を見つけて、俺はそれを放棄した。これも立派な失敗だろ?」

 ――なんだろう……すごく、こわい。
 表面上は穏やかに話すこの男の、真黒に塗りつぶされた目の奥は、しかし笑っていないように見えた。
 なによりも、この、薄皮一枚の下で静かに滾るようなオーラの質。常人でないことは明らかだし、こちらが念の使い手であることも承知しているだろうに、なぜ、こんな回りくどい近づき方を……?

「水を」

 す、と人差し指を噴水に向け、くるくると回してみせた。

「こうやって、宙で遊ばせていただろう」
「……」
「普通、能力者は自らの念の系統を隠すものだ。それをしないということは、己の力を見せびらかしたいただの馬鹿か、あるいは、よほど力に自信があるのか……君は、どうやら後者のようだ」

 すこし雰囲気が変わった。男の顔から笑みが消えた。
 アキの疑問を汲み取り、質される前に答える、この完璧なタイミングといったら。好奇心が疼く。このひとは、だれ?

「……見られていることに、気づかなかっただけ。あなたの絶に少しでも淀みがあれば、そんなことはしなかった」
「お褒めに与り」

 畏まるように立ち上がり、右手を腰の高さに添えて、お辞儀をしてみせる。英国紳士でも気取るみたいに。
 こわい、という感情が、すこしだけ和らいだ。それは理屈では説明のつかない感覚だった。目の前の男は、もう笑ってはいないのに。

 ぽつ、と、そのとき一粒の雨が頬に触れた。ぽつぽつと、続けて落ちてくる雨粒に乗って、一気に雨のにおいが辺りに満ちた。

「おいで」

 腕を引かれて、アキはもう一度驚く。十分に警戒していたはずなのに、こうもあっさりと不意を突かれるなんて。
 悔しさを差し引けば、とくに逆らう理由はなかったので、黙って従った。屋根の下まで連れて行き、男は、ごく自然に着ていたスーツの上着を脱いでアキにかぶせた。
 ――ほんとうに、なにが目的なんだろう。
 礼も言わずに黙って彼を見た。その目の奥にあるものを、やはりうかがい知ることはできなかった。

「へんなひと」

 ふいと視線をそらして、拗ねるように呟いたアキに、彼は愉しげな視線をもって応える。

(2011/04/17)

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