三、

 教育実習生がやって来た、という噂は、まことしやかに学園中を駆けまわった。好奇心の塊のような生徒たちはみな、この突然の実習生について知りたがったが、隣にはいつも責任者を称する土井教師の姿があり、余計な詮索は問答無用で遮断された。うら若き女性であるということは何ら問題ではない。前例もあることだし、なにより外見でくのいちを判断してはならぬことは、この学園にいる者なら誰もが身に染みてわかっていることだ。

 その夜、立花仙蔵が保健室に立ち寄ったのは、伊作から借りていた薬草の本を返すためだった。委員会のあとさっと風呂を浴び、寝巻のまま保健室へ向かった。床板が裸足のつま先に伝えてくる冷気で、彼はまだ春の遠いことを知る。木々も寒々しく裸の枝を天に向けているこの時節、夜な夜な保健室にこもって何をやることがあるのだ、と伊作にとえば、だってきみ、山茶や疼は冬のものじゃないか、と当然のような答えが返ってきた。
「それに冬はみなが体調を崩しやすい時期だからね。麦門冬の調合なんていくらやっても追いつかないよ」
 そうでなくとも読む書物は山のようにある、と言った彼の横顔がうっとりとしていたのは見間違いではないだろう。以来、仙蔵は伊作に薬学に関しては絶対の信頼をおきつつ、一定の距離を置くことを決めたのだった。新薬の実験体にされてはたまったものではない。

 保健室の障子をあけてすぐに気がついたのは、葛の根の強いにおいだった。競うような桂皮のにおいも混じっており、仙蔵は、おや、と思った。部屋の中心のいろりにはいつもより多く薪がくべられており、先ほどまで薬草を煎じていた痕跡がありありと残っていた。
「やあ、来たね」
 薬棚を閉め、こちらを振り返りながら、おっとりと伊作が笑う。
「誰かいたのか」
「あれ、すれ違わなかった?・・・ああ、忍たま長屋とは別の方向だから、会わないのかな」
「まさか」
「さすが仙蔵。察しがいいね。さっきまで姫様がいらしてたんだよ」
 仙蔵は少し考え、障子を静かに閉めた。そしていろりの傍に腰をおろす。
「葛根湯か。大方、風邪でもひいたのだろう」
「ああもう、僕の台詞をあんまりとらないでよ」
「城の中で蝶よ花よと育てられた女に忍術学園の暮らしは堪えるだろう。いつ根をあげるか見ものだな」
 伊作は苦笑した。件の姫に関する限り、仙蔵の機嫌はすこぶる悪い。理由は明白で、しかしそれを口にすればこの自尊心の高い男のこと、たちまち何倍もの痛切な言葉が返ってくるだろう。伊作は黙って、あの木の上で起きたことをぼんやりと思いだしていた。

 山田利吉。彼のあの態度は、素直に驚くべきものだった。先手を打たれた実感と悔しさがやってきたのは彼が去ってからのことで、歯がみをするより先に伊作はなぜか納得してしまっていた。なるほど、これはさぞかし辛いだろう、と。
 先手を打たれたな、と悔しそうにうめいたのは食満だった。
「・・・正しい判断だ」
 もともと乗り気ではなかった長次がぼそりと呟く。ばかたれ、とかぶせたのは言うまでもない、
「悔しくねえのか、おまえは!」
 文次郎ががなると、横で仙蔵がため息をついた。
「つまらぬな。姫の素性を知らぬ体を装えていれば、もっと楽しめたろうに」
「・・・待って、仙蔵。きみは一体なにを企んでいたの?」
「言ってもいいのか?」
「やめておく」

 いろりの火が弱くなってきたのをみると、伊作は薪を新しくひとついろりにくべ、仙蔵の正面に腰を下ろした。
「姫様ね、頭痛も寒気も発熱も今朝はやくから続いていたみたい。なのに一言も弱音を吐かなくて、授業が終わって、生徒がいなくなったあとに急に動けなくなったんだって」
 仙蔵の形のいい眉がひそめられる。伊作は素直に笑った。
「って、土井先生が言ってた」
「土井先生が?」
「一緒にいたんだよ。すごく怒っていらした。『きみはどうしていつもそう無茶をするんだ』って」
 申し訳なさそうに謝りながら湯のみを小さな手で抱える少女と、その肩を支える教師の姿。それらのあった位置にいま、仙蔵は座っている。伊作はそのことを言わなかった。仙蔵の顔が呆気にとられたような表情をしていたからだった。

 ふいに仙蔵は思い出したように懐から薬草の本を取り出すと、床にそっと置いた。助かった、と礼を述べた後、それきり何を言うでもなく、先ほどのこちらの話に意見を述べるでもなく、かといって去ることもなく、いろりの中の炎の作る陰影をじっと眺めている。時折、彼にはこういうところがあった。弱味は決して人に握らせないくせに、ふとした瞬間にこちらを落ち着かない気持ちにさせる。いくら陽の下に身を晒そうともたいして色をつけないその肌は、いっそ太陽に嫌われているかのようだった。そういえば、件の女の肌も透き通る程白かったな、と伊作は思った。この季節はまだいいが、夏になれば太陽は間違いなくあの白を赤くもやすだろう。仙蔵も生まれは高貴な出ではないのか、といらぬ詮索を巡らせてしまうのは当然のことだった。

「ここは茶も菓子も出ないのか」
 仙蔵があきれたことを言う。だんまりのあとの台詞がそれか、と伊作はため息をついた。
「葛湯くらいなら作ってあげてもいいよ」
「もらおうか」
「保健委員全員で作った葛粉だよ、ありがたく飲んでよね」
 仙蔵は笑ったが、どうして笑ったのか真意は定かではなかった。もしかして体調を崩しているのはきみの方ではないの、という言葉を伊作はすんでのところで飲み込んだ。

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