11.

 一目見て理解した。このひとは、かつて多くの知識を身に纏いながらたったひとつのものの存在を知らぬが故に、世界にとっては無知なこどもと同じレベルにあったこのひとは、そのたったひとつをようやく己の内に見い出し、無知たる純粋さを対価に唯一無二の力を得たということ。
 知らないのに知っている振りをすることよりも、知っているのに知らない振りをすることの方が実はずっと難しい。誘導尋問の効果を得やすいのも後者であるが、しかし念においては尋問の必要すらなく、体を包むオーラのかたち、見えるものと見えないもの、有知無知を判別する要素は他に幾らでもあった。

「文句のひとつでも言いたそうな顔だな」

 高級ホテルを象徴するが如く細部にまで気を配ったゆとりあるロビーは、視覚的にも感性的にも輝きに満ちていた。シンプルかつ大胆に点在する丸柱、そのひとつに背を向けて柱のかたちに沿う立ち位置であったので、互いの顔は見えない。けれども、手を伸ばせば届く距離に在るのだから、私を取り囲む気配の乱れを彼がそう比喩したところで何ら不思議ではなかった。
 手を伸ばせば届く、この距離が、いつも私たちの間に立ちはばかるのだった。それを心地良く思ったことは幾度となくあったはずなのに、いまはどうして、こんなにももどかしい。

「あなたの目的が一歩前進したことを、……仲間としては、喜ぶべきなの?」
「それは君自身が決めることだ。私の示唆するところではないよ」
「蜘蛛の足の一本を折ったその瞬間でさえ、復讐劇に幕を下ろす気は、少しも?」
「愚問だな。君らしくもない」
「らしくないのはどっち。一人の人間をその手にかけたことは何の教訓にもならなかったの?」

 ある種タブーにも近い話題を敢えてこちらから突きつけることは、彼の予想の範疇であろう、と私もまた見当をつけていたので、互いに冷静でいられた(あるいはそれを巧妙に装えた)。
 幼いこどもが玩具の積み木を天辺から突き崩すような容易さで大切な日常をあっけなく壊されることが、どんなに悲痛で、悔しく、絶望的なことか、彼の口から聞かずともわかる。そして自ら断罪を下すことの虚しさと、思いのほか満たされない心も。潔癖なまでの正義感と激しい憎悪の生む結果との矛盾に、一番深手を負わされたのは、結局のところ彼のほう。わかっていた。きっと、始めから。けれど。どうして彼だけを責めることができようか。自らも同じ色の罪に手を染めておきながら。

「念を知って初めて悟ることは多い。君の底知れぬ力もそのひとつだ」

 視界だけで捉えていた姿に、私はようやく焦点を合わせた。それが敵視からくる科白なのか、敬意を表してのことなのか、彼の真意を知りたかった。

「周りの力を求めてしまう前に片が付いたことだけは、本当に、良かったと思っている」

 心なしか瞳の輪郭が和らいだ。しかし以前の彼には程遠い。不完全燃焼の執着心は泥のように重重しく沈殿し、心に上澄みができたようなもので、誰かの手が一掻きでもすれば容易くそこは濁るだろう。そんなもの。ほとんど無意味である。

「これで良かったんだ」

 言い聞かせるように繰り返した。――誰に対して?
 我ながら意地の悪い問い掛けだとおもった。舌先に届ける代わりに、内心苦い笑みを落とす。

「ゴンが力になりたがっていたこと、知ってるくせに」
「だからこそだ。そうでなければもっと早く会いに来れたかもしれない」
「つまり物理的にではなく故意に避けていたと認めるのね」
「半分はな」
「一応聞いておくけれど、残りの半分は?」
「仕事が忙しかったのも本当だ」

 映画やドラマのなかの恋人同士が、それも倦怠期に紡ぎそうなありきたりな科白を受けて、これがいかに不毛な応酬であるかに気づいた。渦中に在ることのなんと盲目的なこと。これだから自分は蚊帳の外でいいとおもうのだ。
 先程から幾度となく開閉を繰り返していた外と中とを遮断する薄っぺらな自動ドアが、再び音を立てて左右に滑った。雑踏のざわめきを共につけて、レオリオが入ってくる。入口近くで待っていた少年二人と合流した。

「来たわね」
「そのようだな。……アキ、」

 耳に心地良く響くテノール。やわらかな彼の声。彼と、彼らと、私の進むべき道が分かたれたあの日から、内二人の少年たちとはときどき連絡を取り合っていたが、他はそれきりであった。……彼にも、電話の一本くらいはしても良かったかもしれない。電波というコミュニケーションツールがこの声を寸分の狂いもなく届けてくれるなら。

「本当はもっと早く君に会いたかった」

 いったい何色の感情をもってそれを言うのか。いつか見た、あの頬に上る朱のような不覚を今度こそ彼は取らなかったので、私には想像することしかできなかった。しかしどんな色合いがこめられているにせよ、……ああ、ほんとうにどこまでも、あなたらしくもない。

(上澄みは当然澄んでいる)(2008/04/23)

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