15.

 別れるなら朝がいい、とおもうようになったのは、二年前からだと確信している。
 前夜までそこにいた痕跡すら拭い取って文字通りあとかたもなく消えたジンに願った、別れの挨拶や、再会の約束、どれでもいい、なんでもいいから、なにかひとつくらい残して欲しかった、というにんげんじみた欲求が、部屋いっぱいに輝く朝日と鳥たちの遠い鳴き声を呆然と受け入れるうちにだんだんどうでもよくなって、それよりもおなかがすいた、顔を洗って朝食を取らなければ…、そんなことを考えた、二年前の、あの朝。(――二時間後には家を出て、クライアントに……)(ジンもいるかな)(いなかったら、これがジンの与えてくれる最後の仕事かな――)
 遥か東から顔を出したばかりの光は生を保つ習慣を単純に引き出すから、寂しさに顔をうずめる暇もない。夜は、別れの物悲しさを抱いて眠るには長すぎる。悔しいくらい、ジンの行動はそつなく私のこころに沿うのだった。

 一度目を覚ましたときの半覚醒状態とは明らかに異なる、焦点の定まった目で私たちを見たクラピカは、驚いたように目を丸くした。彼の目を覚ます気配を感じ、センリツと二人、左右両側から大仰に身を乗り出して覗き込んだためである。センリツにつられた、と自分ではおもっていたが、彼女は彼女で私の勢いにつられたのだという。馬鹿馬鹿しくて愛しい、このささやかな幸福感は、どこか懐かしい心地がした。

 目下最大の心配事がひとまずの解消を見せたことに安心したのか、あるいは誤解の平行線上で余計な気を遣ったのか、クラピカが目を覚ましてすぐにセンリツはその部屋を出た。引き止める理由はなかった。彼女の後を追う理由も。
 視界の端に人影の動く気配を捉え、部屋の出入口に向けていた目を中に戻す。体の片側に重心をかけながら床に手をつき上半身を起こそうとする、その姿は見るからに難儀そうで、自然と手が伸びていた。ひとを思いやるこころは伝染するものかもしれない。だいじょうぶ?、と、自分の口からいまにもあの歌うような声が流れ出るような気がしたけれども、それを試すよりも先にクラピカの声が「すまない」の四文字をなぞったので、うつくしい声を得られたかもしれない一瞬の可能性は永遠に失われてしまった。私の空想をあっけなく打ち破った彼のそれは、謝罪とも礼ともつかない曖昧な響きであった。目覚めたときの安堵なぞとっくに消えていた。確然とした意識は戻ったものの、憔悴していることは見て明らかだ。
 なにかを話すために上体を起こしたものとばかりおもって、少しの間待ってみた。紡がれたのは言葉ではなく、まっさらな静寂だった。

 どこか、たぶんとても近くの空を、鳥が滑りぬけていく。いくつものさえずりはさらさらと流れる清涼な水のように。この瞬間、私たちは、朝のせかいに完全に包囲されていた。

「これから、どうするの?」

 つまらない質問をした。沈黙を恐れたわけではない。ただ声が聞きたかった。「……君は、」唇からぽつりと零れたそれは、おそろしく無防備だった。

「君はどうするんだ」
「うん。もう決めてる」

 唐突に、そして強制的に始まった一人旅のさなか、ハンター試験に臨むその日まではいくつかの雇われ職を不定期的に渡り歩いてきた。無資格のハンターではあったけれども、ひとたび大きな山をこなせば、成果が良質な紹介を呼び、ある程度クライアントに困ることはなかった。高い危険を伴う依頼ほど当然のことながら見返りも大きく、預金口座にはそれなりの額もある。アマチュアとプロフェッショナルとの差は、公に認められ、サイバースペースに名を記録されているかいないかだけの違いだと、始めのうちはそう考えていたが、世間は広く、やがてその認識は甘いと知った。折角の好条件に巡りあっても、ライセンスに拘るクライアントは想像以上に多いのだった。あるときには観光ビザを切らして祖国へ強制送還されかけたこともある。やはりライセンスは取得しておいて損はない、と、そんな風に損得勘定をし始めたのはいつからだっただろう。四年間追い続けていた背中と、私の、そこが決定的に違うところだと感じ入ったものだった。

「一度故郷に戻って、両親のお墓に花を添えてから、本格的にジンを探そうとおもう。これまでも耳を澄ましていたけれどこれといった情報は入らなかったし、片手間じゃあぜったいに見つかるひとじゃないもの」
「ご両親は、鬼籍に入っておられたのか」
「六年前に。父の友人が私に念を教えてくれた師匠で、ジンは師匠の連れてきたひとだった。昔、両親がひどい死に方をして……私は、我を忘れて報復した。そのあと傍にいてくれたのはジンだけだった。だからもう一度会って知りたい。いまの私の目にはジンが、ジンの目には私が、どう映るのか。知りたいの」

 震えもせず、昂ぶりもせず、今度こそ上手く発声できた。いいのよ、と、だって、彼女はいってくれた。 (……ああ、私) (ほんとうはずっと、赦されたかったのかな) なにもかも、なかったことにはできない。だれかの言葉ひとつでなにが変わるわけでもない。とっくに通り過ぎてしまったどうしようもないことで、もがき続けている。私も、このひとも、あるいは、誰も彼もが。なのに、どうして。いつまでも凪ぐことのなかったこころの風向きが変わった気がする。自分なりに理解していたつもりが、いまになってようやく実感できた。せかいは、フィジカルな要素だけで構成されているわけではないのだ。
 クラピカの瞳は、いまはもう、夜の色をしていない。ありふれた単調な色の髪と瞳を持って生まれた私には、彼の持つそれらのうつくしい光がどこからくるのか不思議でならない。じい、と睨みつけていると、目が合って、彼は少し笑った。

「今日の君は饒舌だな」
「だって……あなたが何もいわないから」
「お陰でよく判ったよ、私にとって最大の壁がどこにあるのか」

 かべ?、と、ついオウム返しにする。相手の言葉が理解できなかったとき、そのままを繰り返すのは人類共通の癖かもしれない。そんな無関係なところに思考は飛んだ。

「いや……。いつか、私のこともそんな風に振り返って、君は訪ねてきてくれるだろうか」
「クラピカは、ジンとは違うもの」

 僅かに表情が固まって見えた。それは喜ぶべき反応だった。しかしながら、意味を取り違えられたまま放っておくわけにはいかない、間をおかずに言葉を継ぐ。

「だから、ときどき会いにいく。必要がなくても」

 こんなに近くで向き合っていては、本心を包み隠すためのあらゆる武装をかき集める暇もなかったのだろう、彼の感情が手に取るように判った。もちろん、いつもに比べて、ではあるが。
 数えるほどの短い期間を過ごした廃屋を出て、欲望の渦巻く闇のなかにそのうつくしい外貌を滑り込ませる頃には、きっともう見られない、むき出しのこころに、いまが別れを告げるときだった。

(認識の相違はもう無いみたい)(2009/05/10)

 :
 :

 :

 ・

 絶好の朝。約束はいらない。互いにどこかで生きていて、会いたくなったら会いに行く、ずっと隣にいたくなったら、しばらく一緒に暮らせばいい。十分だ。これ以上贅沢な関係は他にないとさえおもった。同じことを感じているのか否かは判らずとも、その在り方を、彼も求めていることだけは確信できた。聡く、気高いひと。強さと脆さが奇妙なバランスを保って共存する、このひとの上にも、清涼な朝は必ず訪れる。私はそれを待っている。

( 堂 々 巡 り の 思 考 の 果 て に )

<<