不似合いな温度

 暑苦しいなぁ、とおもって見ていたら、釣りあがった目のなかの黒い瞳がすばやく動いた。
 見られている。互いが互いに。
 それは時間にして一秒と続かない一瞬の見つめ合いだった。飛影は同じ場所にながく視線をとどめない。こと人前では顕著にそんな態度を示す。見られていることにこちらが気づくと、ふいと視線を外して、そしておそらく視界の端ではまだその場所や人や物を捉えながら、そのくせ少しも興味のないふりをするのだ。意地っ張りで、恰好つけで、ばかみたい。そんなことしなくていいのに。

「暑くないの?」

 返事はない、ただのしかばねのようだ!と言ってやろうかとおもって、やめた。そんな怖ろしいこと、たとえば幽助にでも生まれ変わらない限りわたしにはできそうにもない。
 仕方がないのでエアコンの温度を下げた。対するわたしはショートパンツに薄いシャツという、なんとも夏らしい装いで、室温は27度で最適だったのだ。予期せぬ来訪者が窓を叩くまでは。一年前の夏に特価で買った窓用クーラーにはリモコンがついていなかったので、ベッドに両膝をついて操作しなければならない。

「連絡もお土産のひとつもなしに来たかとおもえば、だんまり決めこむし……なんなの、涼みにきたの?」

 ほとんど独り言のつもりで言ってから、振り返ると、ベッドの脇に飛影が音もなく立っていた。
 死ぬほど驚いた。
 ……と言ったら、じゃあ死ね、とでも答えるのだろうか、この男は。言葉もなく彼を見あげた。すると相手もこちらをじいと見おろすのだった。彼にしては、随分長い間目を逸らさなかった。
 腕を捕まれた。そこでようやく、あ、と思い当たることがあった。

「言っておくが、これは貴様の自業自得だ」
「わかってるよ。だれも飛影が悪いなんて言ってない」

 フン、と短く鼻を鳴らした。会話は成立している。
 正直なところ、前腕に巻いてある包帯を取ればまだ新しい傷がぱっくりと口を開けてしまいそうで、じぶんでは恐くてなかなか包帯を換えられなかった。
 最初の手当てはあの場に居合わせた蔵馬くんが、次は螢子ちゃんが、その後は忙しい螢子ちゃんに代わって幽助がブチブチ文句を言いながらも、存外慣れた手つきでやわらかく包帯を巻いてくれた。日本に生まれて、平成の世を生き、まさか刀傷をこの身に受ける日がくるなんて。貴重な経験、と言えなくもない。できれば一生経験したくなかったけれど。
 飛影の言うとおりだ。悪いのは、じっとしていろと言われたのに咄嗟にそうできなかった、わたし。だれよりも早く来てくれたのに。あの飛影が!わたしを助けるために!その経験こそきっともう天地がひっくり返ってもできやしない。

「でもさ、飛影の刀、ちょこっと掠っただけでもこの有様なのに、あれをモロに喰らった妖怪は相当痛かっただろうね。ちょっと同情しちゃう……」

 男の目つきが一瞬で鋭さを増した。即座に離された手が、少し名残惜しかった。

「馬鹿も休み休み言え。自分を浚った妖怪に同情だと?」
「だからちょっとだけ。こーんなちょびっと!」

 目の前で、親指と人差し指の腹をぎりぎりくっつかないところまで近づけてみせる。返事の代わりに、プラスチック製のちいさな容器を投げられた。

「貴様から蔵馬に言っておけ。二度と配達屋のような真似はせん、と」

 蓋を回すと白色の軟膏が入っていた。ははあ、蔵馬くんに頼まれたか頼んだのかは定かではないけれど、これを届けにきたのだな、と得心した。出すタイミングを見計らっている彼を想像して笑い出しそうになりながら、顔をあげると、黒づくめの暑苦しい恰好をした男は忽然と姿を消していた。カーテンが大きくはためいて、窓の外のぬるい空気が押し寄せてくる。
 夏の風も、強いちからで握られたあの男の手も、冷えた肌には心地よかった。

(2010/08/01)

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