車窓の向こうを単調な夜が流れゆく。街から零れ出る無数の輝きはその輪郭を失い、なかには、時折点滅するものもあった。まるで篝火が風に揺らめくみたいに。手を伸ばせば届く気がして、あちらとこちらを隔てる硝子に指先だけで触れてみれば、頬が火照るまで暖まりきった車内では想像もできないほどの冷ややかさで熱を奪われた。
「……シャル、」
握るというより添えるというほうが余程相応しい触れ方でおざなりにハンドルをきっているようにしか見えないのに、この車は何故塗装された道を外れもせずしなやかに滑るのだろうか。あるいは、道のほうが彼に合わせてぐにゃりと曲がり、わたしたちを安全に運んでいるのかもしれなかった。現実に決して帰すことのない馬鹿げた空想も、己の内に完結させるならば、いくら思い巡らせようともわたしの自由だ。頭のなかの世界くらい思い通りに動かして何がいけない。
夜と沈黙との相乗効果。取り留めのない思考のなんと余分に溢れること。いまのわたしにとっては最も手軽な打開策に、フロントガラスの向こうを見つめたまま曖昧に喉を鳴らして男は答え、
「まだどこへ行くのか聞いてない」
「どこへでも」
「なにそれ。乗らないと後悔するって、あれ、口から出任せだったわけ?」
「乗れば後悔しないとは言ってないだろ?」
いけしゃあしゃあと言ってのけた。
この男は滅多に嘘をつかない。代わりに、元来自分の意思を正しく伝えるためにあるはずの言語を意図的に誤解させ、他人を言葉の罠にかけることが病的に巧かった。人並み以上に整った容姿がそれを後援していることも、彼はもちろん承知している。皮膚の下に隠されたなにか禍禍しいものを上手に使い分けながら、どこにも根を下ろさず俗世をそれこそ滑るように生きていく。正直とても羨ましい。でも、真似はできない。わたしはわたしのちいさな世界から離脱することが怖ろしくてたまらないのだ。一度手放せば絆は断たれる、断たれた絆は、きっともう二度と元のかたちに戻ることはない。それは確信に近い予察だった。
わたしは、シャルナークのようには生きられない。
「アキってさ、人を殺さない代わりに自分を殺してるよね」
喉の奥に込み上げた痛みを見透かされたのかと、おもわず目を丸くしたが、車窓を経て夜に浮かぶ自分の顔を見ればすぐに納得がいった。いまにも涙の零れ落ちそうな眼をしている。(……情けない顔、)感情のコントロールひとつまともに取れない。わたしは彼とはちがうんだ、このうつくしいひととは、何もかもが。悲しみとも寂寥ともつかない漠然とした不安が胸を掠めた。
「そういうとこ面倒くさくてかわいい」
語尾につけたその形容詞はあなたのためにこそあるのでは?、と返したくなるような、とびきりの笑みを湛えて彼は言った。意味わかんない…、まるで悪魔のささやきのような言葉にそう言って抗うつもりが、上手くいかなかった。喉があつい。声が震えることは免れない。口を開けば、その惨めさに一層泣きたくなるだろう。
ひんやりとした冷気が伝わってくるほど窓に顔を寄せたまま、突き返してやるべき言葉をいつまでも探しあぐねていると、不意にかわいらしい音の波が広がった。運転席の彼は慣れた手つきでカーステレオのヴォリウムを調節した。この車は十中八九シャルナークではない別の誰かの所有物だろうけれども、そんなことはどうでもよかった。高い音域で踊る精密で完璧なアルペジオ。薄い硝子窓一枚を隔てた外のせかいで細細と輝く街の灯りにそれは似ていた。切ないほど澄みきっている。
「……だったら、いっそ攫って」
「それなら大得意」
おれは盗賊だからね、とシニカルにわらう彼は、意図的に齟齬をきたしてわたしをはぐらかしたのだ、と、でも今はまだ気づきたくなかった。気づくべきではないことを知っていた。せめてこの夜が終わるまでは。
(2008/03/20)
(Gaspard de la nuit / For.madorigale)