14.

 時折風が撫ぜる他にほとんど波はなく、穏やかに流れる水面、その下で、水深深く潜れば潜るほど獰猛な流水が牙をむく。山でもなく海でもなく、河川に秘められたそんな激しさを彷彿とさせた一人の男と、眼前に横たわりときどき魘されながら夢と現との狭間を行き交うこの男が、いっそ別人であったなら、私は疾うに彼を記憶の端に追いやって気ままな旅に出られたかもしれなかった。
 強いのだか弱いのだか、実のところいまだに判断のつかない彼が、だからこんなにも気にかかるのか、はたまた過剰な意識を抱く余りになにか根底から彼を見誤っているのか。冷たい水に浸したタオルをよく絞り、クラピカの額の上で存分に熱を吸い上げたものと甲斐甲斐しく取り替えるセンリツの後姿を、ちいさな四角い部屋の隅でぼんやり眺めながら、いまここにこうしている意味を考えるともなく考えていた。

 出会って間もない彼女が、彼を覗き込むときと同じくらい慎重にときどきこちらの様子を伺っていることには気づいた素振りを見せないよう努めた。彼女の能力を前にしてのそれは徒労に終わるかもしれないが。心配される理由が見つからない。それでは弁解のしようもなかった。

「落ち着いているのね」

 そうおもうなら、どうして。態度とは裏腹の科白を訝しんでいることを正確に伝えるために、わざわざそれらしい表情を作った甲斐も虚しく、少しの間をおいて、彼女は振り返りもせずに自らの言葉足らずを詫びた。振り向きもせず、こちらの意中を的確に悟る。その稀有な能力が彼女に触れる一切の欺瞞を囁くたび、受け入れるにせよ、受け流すにせよ、これだけの清潔さを保っていられることは脅威におもえた。――心持ちの強いひとなのだ、きっと、私や彼よりも、ずっと。

「大切なひとの苦しむ姿を目の当たりにしている割りには、あなたの音は凪いでいる。それが少し意外だったの」

 些か誤解も含まれる気がしたが、いまの私たちにとってそれは正しく些事であったので特に言及はせず、――実際安心してる、だって昨日までのことをおもえばいまのこの状況はよっぽど平和的じゃない――事もなげに答えた。どんなにきめ細やかな砂でも手のひらから落としたとき、必ず残るざらつきのようなささやかな違和感には、やはり知って知らないふりをしたまま。

「そうかしら?それにしては、昨夜はあまり眠れなかったようだけど」

 そこまでわかるの?、と口に出してすぐに後悔した。無神経な言い方だったかもしれない。しかしながら彼女は特に気にした様子もなく(それとも、また余計な気を遣わせてしまっただろうか?)、「クラピカが当分危険な目に遭う恐れがないのは確かに安心よね、でも理屈ではないところでやっぱり彼の身を案じている、というところかしら」などという。
 いつもなら、このまま沈黙を貫いたかもしれない。けれど、――違う、ほんとうにそういうんじゃないの――感情の機微が余すところなく伝わっているのならば、黙してうやむやにすることも、虚偽を向けることも、等しく彼女の心配を踏みにじるだけの行為におもえた。

「意識を……手放すのが、こわくて」

 声が、こうも感情に正直なものだとは知らなかった。言葉を選び、平静を保てるぎりぎりのラインをなぞったつもりが、思いのほか弱々しく響いてしまった。少しの驚きと、困惑の気配。私の音、とやらは、いまどんな音色に乗せて拭いきれないこころの震えを伝えているのだろう。
 その先を言葉にしたことは、まだなかった。
 しかし思い返せばいまにも生臭さが鼻をつくように錯覚し、映像は印象による強弱をつけながらも鮮明に蘇る。失いたくない記憶ほど早く私のなかからこぼれ落ちて、思い出したくても思い出せないことはたくさんあるのに、どうして嫌な記憶ばかりがいつまでもこびりついて離れないのか。六年前から続く睡眠障害。ジンの傍で過ごすうちにやや改善はしたものの、いまだ眠りは浅く、完全に意識を放棄することは難しかった。自らをコントロールできない状況下に意識を沈めるのがこわくてたまらない。目が覚めたとき、この手が血に濡れていない保障なんて、どこにもない。

「アキ、」

 肩が震えてしまった。すぐ傍で大きなゴム風船が割れたときのような反応だった。彼女の声は、信じられないほどやさしく届いたのに。

「もしもあなたが、真実を包み隠さず話さなければ私に悪いと思っているのなら、それは違うわ。隠すことと欺くことは必ずしも同じではないの。だから、いいのよ」

 いいのよ。
 内心の悲鳴を抑えてまでなにかを明かそうとする、そんなあなたを前にするほうがよっぽど酷よ、冗談めかしてそう続けた彼女はいつしか体ごとこちらを振り返っていたが、ややあって、おそらく耳に響く心音のうちのひとつが幾分か落ち着いたのを聞き届けてから、私の視線に穏やかな微笑みをもって返し、ふたたび彼に向き直った。鼓動のリズムを聞き分け、他人の心理を読み取るにとどまらず、その向こう側にある思考さえも正確にトレースする、それこそが、類まれなる彼女の才能であった。
 声をあげて泣いてしまいたいような、彼女の背中にそっと微笑みかけたいような、矛盾した気持ちが同時に沸き起こって、一瞬後、私はどちらも選ばないことを選んだ。なぜだか途端に、一人離れた場所にいることが馬鹿馬鹿しくなって、二人の傍へと身を移すべく立ち上がった。できるだけ音を立てないように。

 古びた窓から拡散する弱々しい光が、一つ処に集まればおそらくこんな風に輝くのだろうと想像する、まさにその色が私たちの目の前に横たわる男の髪に宿っていた。触れれば冷たく、さらりと指をすべる。「あら……見て、眉間の皺がとれたわよ」現金なひとね、と、子守唄のような声が聞こえた。

(てのひらのなか)(2008/12/05)

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