8.前編

 日常と非日常の間に境目を見い出すことはひどく難しい。悟る由もなくその線を踏み越えて、自分がいま後者のなかに在ると気づいたときにはもう、ひとは何かを失っている。振り返れば、遥か後方で浮き上がるボーダーライン。おまえの転機はここだったのだと、嘲笑うように。

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 ジンに出会うより以前の私は、両親と三人、穏やかな毎日を積み重ねていた。
 小さな町のどこにでもあるような家庭のなかで、ただ一つ他と異なっていたことは、父が世界の秘密……念を習得しようと躍起になっていることだった。

 野生動物の、とりわけ絶滅危惧種の保護を目的とする団体に所属していた父は、仕事の過程でハンターの友人――彼が後に連れてくる人物こそがジン=フリークスだった――を得て、念の存在を知った。使い様によっては最強の武器になり得る念能力。凶悪な密猟者をも自らの手で捕らえられるとしたら、父にとってこれほど魅力的な力はない。
 父は友人に念の教えを請うた。始めは、民間人に教えられる物ではない、と頑なに拒んだそのひとも、終には父のひたむきさに折れた……と本人は話したが、おそらくは、父に念を習得することは不可能であると判断し、彼自身もそれを知れば諦めるより他にないと考えてのことだろう。事実、父はその後どれほど修行を積んでも、基礎の四大行は愚か、オーラのコントロール源である精孔を開くことすら叶わなかった。
 しかしそこには友人の誤算がひとつ、息を潜めていた。
 あたかも家族団欒の余興の如く父の修行は母と私の目の前で行われ、子供心に興味を惹かれた私が彼の真似事を続ける内、次第にオーラの流れを意識できるようになり、やがてオーラを意図的に躯に留めることまで覚えてしまったのである。
 父の友人はそれを“纏”と呼んだ。

――信じられない……この歳で纏を習得したこと以上に、精孔が開いてから纏に至るまでのスピードが尋常じゃない。
――まさかこの子にそんな才があったとはな。嬉しいやら面目が立たないやら。
――喜んでやれよ、鳶が鷹を生んだってな。

 その日以来、父は自ら修行を止めた。自分には娘の放つ力を感じ取ることすら適わないというリアルが、彼に己の限界を悟らせたようだった。意外にも、落胆した様子はなかった。元々がおおらかなひとなのだ。信念を貫くことと無理を通すことの違いを弁え、決断の折には潔く、誰の前でも驕らずへりくだることもなく、いつだってありのままの姿でそこにいる父が、私はとても好きだった。
 父は、私の頭を両手でやさしく掻き乱した。子供を褒める時の癖だ。言葉で褒められるより何倍も嬉しい、私の一等好きな父の癖。にわかに誇らしさを覚えながら、幼心にも念の可能性に強く心を惹かれ、私は正式に念を習いたいと申し出た。父の友人も私に正しい知識を与えることに異存はなかったので、私の師となることを快諾し、それまでよりも熱心に我が家へ通うようになった。

 三人の大人に暖かく見守られながら日々がやさしく過ぎていったあの頃、この先どんなことが待ち受けているかも知らずに曇りなく笑う私は、数日後に十一歳の誕生日を迎えようとしていた。

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 父の友人を「師匠」と呼ぶのにもすっかり慣れた、ある日のこと。家人が寝静まり、しんと冷えた夜に包まれた家のなかで、隣の部屋から陶器の割れる派手な音が響いた。驚いて目を覚ました両親と私は、次いで聞こえる話し声に、泥棒が入ったのだと思った。父は身を滑らせるようにベッドから抜け出し、母と私に身を隠すよう視線だけで合図して、護身用の銃を手に隣の部屋へ踏み込んだ。
 聞こえてきたのは、家中に響くほどの怒鳴り声、銃声、悲鳴。咄嗟に母は私を洋服タンスに連れ込み、後ろから抱き締める姿勢で私の口を塞いで息を潜めた。
 ややあって、見知らぬ男が二人、寝室に足を踏み入れた。タンスの小さな鍵穴から見えた男の顔に浮かぶ薄ら笑いはきっと一生忘れないだろうと思った。後から入った男が、父の体を引きずるようにして運んできた。

「誰もいねぇぜ」
「どうせその辺に隠れてんだろ」
「引きずり出すか?」
「いや、コイツさえ仕留めればいい。コイツと、あのハンターさえいなければ狩りはずっとやり易くなる」
「で?どうすんだよ、そいつ」
「勿論、囮にするさ。生きているように見せかけてな」
「人間の剥製か。悪くねぇな」

 腹の底から湧き上がる感情が怒りなのか悲しみなのかその時の私にはわからなかった。すぐにでも自分を押さえつける母の手を振り払って飛び出して行きたかった。しかし母は震える手に渾身の力を込めて私を行かせまいとする。その手を振り払おうとする私と、決して離そうとはしない母とのせめぎ合いが、小さな物音となって二人の男に伝わってしまった。

「おい、いま何か音が」
「ああ、聞こえたな。……大人しくしていれば見逃してやってもよかったのにな」

 男がこちらに近づいて来る。私は身構えた。母は、母だけは、絶対に傷つけさせやしない。タンスの扉がゆっくりと開かれる。差し込む光の向こうで、男が厭な笑みを浮かべて銃口を突きつけた。耳元で轟く銃声。血を流してぐったりと倒れ込んだのは、男がトリガーを引く僅かな隙に身を乗り出して私に覆い被さった母であった。

「かあ、さ……」

 母の体を支える手にぬるりとした感触。手のひらの赤。目を見開いたまま動かない母。大切なものが失われていく。私の傍で、腕の中で。
 母の頬に触れる。手は届くのに、もう何も、届かない。

続>

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