鶴なのに手袋をつけた、それは奇妙な生き物だった。やわらかそうな白い羽をばさばさと忙しなく上下させ、彼の細い足には大きすぎるような、でもふしぎとよく似合っている靴をはいた足で地上に降りた。歩いてこちらへやってくる。
「太公望師叔!やっぱり人間界にいらしたんですね」
ここより遥か上空に住まう仙道たちのなかには動植物が基となって生まれた者も在ると聞く。なるほどこういうことであったかと、初めて目にする妖怪仙人を前に香蘭は理解した。
太公望はぴくりとも動かない。
「寝てるよ」
これはこれは、と、鶴の姿をした彼は恭しく話しかけてきた。――あなたのような人間の娘さんが、何故師叔と一緒に?……いや、それはよいのです、それよりも師叔!起きてください。
釣りざおを握り締めたままかたく目を閉じた太公望の体を、彼は揺さぶった。かくんかくん、と前後に頭が揺れる。隣で見ていた香蘭にはもうわかっていた。ただ目を閉じているだけのこと。
「連れていってしまうの?」
「ええ、元始……上のせかいの偉いひとがお呼びなものですから」
「急ぎの用事?」
「いえ、ここだけの話、ただ遊び相手を探しておられるご様子でした」
「ジジイ……」
「あっ師叔!起きておられるではないですか!」
しまった、なんて態を装いながらも、内心ではちっとも焦ってなんかいない。少なくとも彼女にはそう見えた。
二言三言言葉を交わし、上のせかいの偉いひとの使いに来たという白い鶴は、存外あっさりと背を向けて滑るように空へ昇っていった。香蘭はじぶんのなかにある太公望の人物像を上書きする。好きなことは釣りと昼寝、得意なことは、狸寝入りと買収。
「へんな道士さま」
「昨日今日会ったばかりの小娘に変人扱いされるとは……わしも落ちたのう」
「褒めてるんだよ」
香蘭は仙道が嫌いだった。人間の持たない力を持つただそれだけの理由で必要以上に胸を張りひとを見下す仙道を、これまでに何人も見てきた。その卑小さ、醜さ、なにを以って仙道を尊しとすればよいのか、香蘭にはわからなかった。ひとりで魚釣りをして遊んでいる道士を見かけたところで、いつもの彼女ならば、だから無視して通り過ぎたはずだ。目の前で倒れられたりしなければ。
桃がほしいというのでわざわざ家に取りに帰ってまでわけてやった昨日の、それを貪る太公望の姿を思い出して、わらう。よほど腹を空かせていたらしい。何匹もの魚を釣り上げては川に返しておきながら、自身は空腹に倒れる、その間抜けさをおもうと可笑しかった。
「仙道はあまり好きじゃないけど、道士さまと話すのはたのしいよ。もう帰らなきゃいけないなら、私も一緒に連れていってほしい」
「ならぬ。仙人界はただの人間が気軽に往き来してよい場所ではない」
「上から下へは来るのに?ずるい、そんなの」
「ずるいずるくないの話ではないっちゅうに」
今日は五つも桃を持ってきた。太公望は三個ほどぺろりと平らげて、残りのひとつを香蘭に、ひとつを今度は味わうようにゆっくり食べた。香蘭は手にした桃の皮をざっくりと剥いて、とろみのある汁の滴るやわらかな実にかじりついた。あまい香りと溶けるような食感。舌とこころが同時に潤うようなきもち。
「わしらと人間とでは、書いて字の如く住む世界が違うのだ」
香蘭の持ってきた桃をうれしそうに食べ、いまここで同じ時を過ごすこの男が、じぶんとなにが違うというのか。仙道の考えることはやっぱりわからない。でも、と彼女はおもう、でもじぶんはこの道士ともっと一緒にいたい。そのきもちだけは確かだ。
「だが、まあ…、また来てやらんこともない」
おぬしには助けてもらった恩もあるしのう、言いながら、今日はあまり引きのこない釣りざおを握りなおす。もうすこしここにいてくれる気のようだ。
つぎは名前で呼んでみようかしら。
川の水で手を洗いながら香蘭は考える。水はおもいのほか冷たく、季節のうつろいを予感させた。