「なんだかそわそわしているね」
脈絡というものにあまり重きをおかない彼はこのときも例に漏れず、そう言った。だれに対しての言葉か理解するのに一瞬の間をおいてしまったことが、太公望にはすこし悔しかった。
「そわそわなどしておらぬ」
「望ちゃんがそう言うのならそれでいいけれど」
強力な睡眠薬をどばどばと遠慮なく流し込みながら、表情ひとつ変えずに普賢は答える。これから崑崙山の頂を罠にかけようとする者のそれとはおもえない、と言ってやろうとして、やめた。元始天尊の愛用する食器のひとつに映った己の顔と目が合ったからだ。ひとのことは言えまい。
黄巾力士を盗むのはそれほど難しいことではなかった。操作は普賢が、行き先は、それとなく太公望が示した。
――今日は来ておらぬか。
霊穴のある岩のぐるりを見回したが、辺りに人影はない。のどかな空気をふたりそれぞれに楽しみ、霊力を高めつつ、話し、そうしてしばらくを過ごした後に、待つともなく待っていた娘が岩陰からひょっこりと姿を現した。
この日はニジマスがよく釣れた。同期の男に薦められ、真直ぐな縫い針を水面に垂らすそのときまでは。
—
「望ちゃん」
随分前から聞きなれている呼び名である。……が、大きな違和感があった。いつもじぶんをそう呼ぶ声とは明らかに別の音だった。
だれの声かはすぐにわかったけれども、そんな風に呼ばれたことはなかったので。多少は驚いたが顔には出さない。
「望ちゃんと先生、今日も一緒に遊びにくるなんて、仲が良いのね」
「せっ、せんせい?!」
「そうだね、望ちゃんは僕に友情を感じてくれているのかな」
おもいもよらぬ呼称に今度こそ驚きを隠せなかった。訝る太公望をよそに、普賢と香蘭は和やかに話す。うぐ、と言葉に詰まりかけたが、すぐに持ち直してふたりを問い詰めた。
いわく、太公望に出会い、初めて仙道に興味を持った彼女が、仙人界の多くを語ってはくれない太公望に痺れを切らして、彼が一度だけ連れてきた普賢にまとを変えて教えを請うたところあっさりと承諾されたのだと。香蘭はすなおに喜んでいる様子だった。
「だって、望ちゃんは私の知りたいことなにも教えてくれないから」
「だからといって、わしのおらん間にこそこそしおって……」
「そうやってうだうだしているから横から掻っ攫われるんじゃない?大切なものを大切だというのもひとつの勇気だよ」
そこまでいわせておきながら、大切とかそんなんじゃないわい、などと口内でぶつくさつぶやく彼の友に、ばかだなぁ望ちゃん、と普賢はやさしく目を細めた。
(2011/12/17)