牡丹

 庭に咲く大輪の花がとても美しかったので、何という花なのか知りたくなって、花びらの色、かたち、葉の広がり方、それら花の特徴を記憶してから母の部屋へ向かった。もう長いこと床に臥せったままの母は、あるいはその花が庭にあることすら知らないかもしれない、毎日あの庭を通るじぶんですら今しがた初めてその存在に気づいたのだ、と、家のなかを歩くうちにおれは心許なくなるのだったが、
 ――ああ、あれはね、
 母はあっさりと答えてくれた。

 おれはすっかりその花が気に入った。その花は名を牡丹という。やわらかそうな花びらが何枚も折り重なって、大きなまるい輪郭を形づくり、堂堂としている。きれいな桃の色でしょう、とわらう母の、それは一等好きな色だった。

 初めて顔を合わせたときそのひとはどんな顔をするのだろうか、ずっと気になっていたが、実際会ってみればなんてことはない、ふつうの、だれにでも向けるような当たり障りのない表情で名を教え合っただけだった。拍子抜けした。すこし腹が立った。父方の姓を名乗ったから気づいていないのかもしれない。そのことにがっかりしたじぶんに、腹が立ったのだ。
 おれは道士として修練を積むためにここに来た。幼い頃からまるで童話のように聞かされていた、ほんとうにいるのかもわからなかった太公望といういち道士に、訃報を届けに来たのでは決してない。

「道士になるのか」

 まるでそれが彼の望むところではないような口調だった。頭の天辺から足の爪先までじっくりとおれの外側を見てから渡された言葉であったので、ああこれは侮られているな、と受け取ったが、不快感は面の皮一枚下に押しとどめておく。面倒事はご免だ。

「そのつもりがなければこんなところまで来ません」
「香蘭は仙道が好きではないと言っておった。だからこそ、今日このときまで待っていたのであろう?」

 いともあっさりその名を口にされ、おれのなかにあるこのひとの評価が一瞬で逆転した。背中を電流が走ったような気さえした。指先まで痺れて、冷える。
 おれと母との繋がりも、おれの内にある思惑も、読まれていた。それがいつから、どんな回路によるものか、さっぱりわからなかった。けれどそのままわからない顔をするのも口惜しいので。すましてつぎの言葉を待った。

「おぬしの母君は聡明な娘であったよ」
「知ってます」

 だからきっと、母は気づいていた。最初におれを迎えにきた仙人にほんとうはおれがついて行きたがっていたこと、母を残しては行けないと思いあがっていたこと、彼女が天寿を全うしたあとに、おれが何の後ろ髪を引かれることもなく仙人界へ赴くだろうこと。だからきっと、母は、遠い昔に何度か同じ時を過ごしたふたりの道士の話を、宝箱のいちばん奥からひっそりと取り出すようにして、おれだけに話して聞かせてくれたのだ。
 おれは、だから知っているんです。あなたのこと、かたちだけでも幼い母の師になってくれたもうひとりの道士のこと、それから、

「母はあなたを愛したけれどあなたは母を愛さなかったことも」
「……そうではない」
「太公望師叔」

 静かに目を伏せた彼の視線がもう一度こちらに向くのを認めてから、告げるか否か慮っていた言葉を、もはや一切の迷いもなく、おれはくっきりとした声でなぞった。

「おれを弟子にしてください」

 すでに元始天尊さまからは住む家を戴きました、できるだけあなたに近い場所で、と加える。太公望師叔は二の句が継げない様子でおれを見ている。
 いまはもうだれも待つひとのいないあの家で牡丹はいつまで花を咲かせられるかしら。それだけが、気がかりだった。

(2011/12/17)

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