01,旅立ち
冬の初めにしては日差しのあたたかい、ぽかぽかとよく晴れた日であった。絶好の旅立ち日和ですね、一歩前を往くなずなは嬉しそうにそう言うが、はあ、と一言、肯定ともため息ともつかない曖昧な音が口から漏れただけで、利吉にはそれ以上答えようがなかった。嵐の前の静けさ。そんな言葉が脳裏をかける。
――此度は長く関わりすぎたな。
そう省みる彼の、目の奥がにわかに冷めた色をした。
自身がフリーの忍者であることを利吉はいつも意識している。どこの城主に気に入られようと、どこの忍頭からの誘いを受けようと、いまはまだひとつの共同体に納まる気はなく、だからどんな依頼も仕事と割り切り深く立ち入らないようにしてきた。ところが彼はいま、ひとりの姫を伴い忍術学園を目指して歩いている。単身同じ道を往くときの倍以上もの時間と労力をかけて。
然る城の主から、折り入って頼みたいことがある、と切り出されたそのときにもやはり、しまった、と、同じことを彼は考えた。もっとはやくに手を引くべきだった。踏み越えてはならない境界線はいつの間に踵の後ろ側にきてしまったのだろうか。
思考を一巡させる間にも器用に意識の片隅を研ぎ澄ませたまま、知らず、利吉はじぶんの前を頼りなく歩く女の裾風に見入っていた。
02,明くる日
いくつものまだ幼い声が窓の外で弾む。あの声はきっと、じぶんの受け持つ組の。
意識の端にそれを捉えながら、朱色の墨汁をたっぷりとつけた筆先を最後の答案用紙の上に滑らせた。仕上げに書き込む大きな楕円。丸印ではない、涙を誘う零点のしるしだ。盛大なため息と共に、土井半助は筆をおいた。
窓を開けると、はたして、井桁記号の入った水色の忍者頭巾がわらわらと集まっていた。ほとんど消えかかったちいさな火を囲むよいこたちのなかで、真先に顔をあげたのはきり丸だった。そのことを半助は心に留めておくことにした。あとで褒めてやらなければ。忍を志す者にとって他人の気配に敏感であることは長所である。教室でも、すでに何度か教えたことだ。
けれども彼だけはこの学園に来る前から、それをもう身につけていたようにおもう。きっとそうせざるを得なかったのだろう。こどもが独り生き抜くために。
おとなの起こした争いの火種がなにも知らないこどもたちに降りかかることの、理不尽さと物悲しさを、これまでにも幾たび胸の奥で押しつぶしてきたことか。戦はなくならない。ならば戦乱の世を生き抜く術を少しでも多く、彼らに。半助の、教鞭を取り続ける、それが理由のひとつだった。
「おまえたち、焚き火はいいが、火の扱いには十分注意するように」
はぁい、いかにもこどもらしい返事はどこか演技じみていて、でも、やはりかわいらしい。そう感じるのは親ばかならぬ教師ばかだろうか。自然と目を細めて見ていた。
前を見ればこどもたちの笑顔、後ろを見れば、さきほど採点が終わったばかりの試験の答案用紙。まるで天国と地獄だ。しかし。ときにはこころを鬼にしなければならないのだ。
窓から吹き込んだ風が、ひやりと半助の頬を撫でた。うう、寒、と首を縮める。
「今日は冷えるな。昨日はあんなに暖かかったのに」
「せんせぇ、先生もこっちに来てあたたまってください。食堂のおばちゃんにもらったご褒美もあるんです!」
顔いっぱいに笑みを浮かべてしんべヱが呼ぶ。彼のいうご褒美の正体はすぐに知れた。香ばしいとも焦げくさいとも取れる、落ち葉の焼けるにおいに混じって、鼻の奥をくすぐるのは、
「焼き芋かぁ」
おもわず間延びした声を出した。
だぁいせいかい!と、半助に負けず劣らずの気の抜けるような抑揚で、言うが早いか、しんべヱはもうこちらを見てはいなかった。パチ、とも、パキ、ともつかぬ音で不規則に爆ぜる残り火を一心不乱に見つめている。正確には、そのなかでどれほどおいしく焼けただろう、いくつかの芋を。
「有り難い誘いだが、私はこれから別の用があるんだ。おまえたちだけで食べなさい」
仕事に区切りがついたら学園長室へ参じるようにとの業務命令だった。
何の話か、心当たりはあるといえば、ある。
近頃、一部の教職員の間で噂になっていた話が事実だとするならば、そろそろこの学園に悩みの種が持ち込まれてくるはずだと、半助は見当をつけていた。
03,対談
畳に置かれた丸い盆、そのうえにふたつ並んだ湯飲み茶碗から、ゆらゆらと温かそうな湯気があがっている。ヘムヘムが礼儀正しくお茶を出してくれたので、利吉は礼を述べてから一口すすった。一息ついて、本題に入る。
利吉の話を粗方聞いたところで、ふうむ、と学園長はなにやら思案顔をして黙った。そのまま立ち上がり、締めた引き戸の向こう側を窓越しに覗く。
「つまり、その城主は娘をこの忍術学園に預けたいと、そう申しておるのじゃな」
「その通りです。三つの城が睨み合っている、いわば三つ巴の戦乱がいつ起こるやも知れぬこの状況下において、殿はなんとか姫だけでも無事に逃がしたいと」
「ずいぶん手前勝手な話じゃのう」
「勝手は承知のうえなのです。けれど、じつはあの姫こそが最も危ない身」
言って、利吉が視線を送った先には、窓の向こうに広がる庭の、池のほとりにしゃがみ込んでなにかを眺めている娘の姿があった。
学園長は首を傾げる。
「どういうことじゃ。説明せい、利吉」
「はい。あの姫の生まれ育った城と、他ふたつの城とでは、大きな違いがあります。それは継ぎ目がいるか、いないか」
「他の城々には嫡子がおらんのか」
「ええ、そしていっとき私の仕えていた城にもご嫡女はひとりきり。それがあの姫君なのです」
「なるほどのう…、だが跡継ぎがいるかいないかなど、まずは戦に勝ってからの問題ではないか」
「それが…。つかぬことを伺いますが、学園長先生は、姫をご覧になってどう思われますか?」
そういわれれば、なにか秘密があるのかとおもうのが道理である。もう一度よく観察してみるが、しかしこれといって変わった点は見当たらなかった。
「どうとも…、ただの可愛らしい姫じゃ」
「それが問題なのです」
ええいもったいぶらずに結論を言え!、焦れた様子でいう学園長に、利吉は根気強く、姫を取り巻く現状を説明した。
04,その頃
池のなかの冷たそうな水を、すいい、と、からだ全体で掻き分けて鯉は泳ぐ。城を出たときはぽかぽか陽気だったのに、今日の冷え方はなんと冬らしいこと。水のなかは寒くないのかしら、と心配しながら身を乗り出して見ていると、突然、足下の土がひとかたまり剥がれ落ちて、足をすべらせた。
――落ちる!
なずなはとっさに目を瞑った。けれども、少し待っても水面に叩きつけられる衝撃を受けなかった。目を開けて、だれかの手に支えられていることに気づく。なずなの知らない男であった。
「危ないですよ。池をのぞくのはいいが、足下には気をつけて」
呆気にとられながらも、彼女の目は無意識に男を観察する。黒い忍装束は城のなかでも見かけることはあったけれども、布で顔を覆わず、こちらの目を見て微笑みかけてくれる忍者は珍しかった。
一瞬でじぶんのなかを満たした焦りと恐怖心をなんとか切り離し、なずなはこころを落ち着かせようと努めた。
「落ちてしまうかと、おもいました」
「もう大丈夫ですよ」
震えてしまったなずなの声とは対照的に、落ち着いたやさしい声で彼は答えた。お礼をいおうと口を開きかけたとき、庭に面した部屋の扉が勢いよく開いた。
「姫!ご無事ですか!?」
慌てた様子で利吉が飛び出してきた。
「ごめんなさい、利吉。大丈夫です。この方が助けてくださいました」
「ああもうちょっと目を離すとこれだ!ありがとうございました、土井先生」
「いいんだ、大事なくて良かった」
「閃いたぞ!」
縁の上から事の始終を見ていた学園長が叫んだ。なずな以外のふたりの胸に不安が過ぎる。彼のひとの、閃いたぞ、の台詞には何度も手を焼かされてきた。今度はいったいなにをおもいついたのやら。
身構えたふたりの男を気にも留めず、さもこれ以上の名案はないという自信に満ちた顔をして、彼は提案する。
「姫の身分は明かさず、教育実習生として迎えることとしよう」
「学園長、それはつまり姫に仕事を与えると?」
すかさず利吉は口を挟んだ。
無事に学園まで姫を送り届けはしたものの、いっとき彼女の身を任されたという責任感は、まだ彼のなかで尾を引いている。
「当然じゃ。働かざる者食うべからず。食堂のおばちゃんや事務の小松田くんの手伝いでもよいが、あの二人ではいざという時に彼女を守れんじゃろう。その点、土井先生なら護衛としても何ら不足ない」
「それはまあそうですが……」
身分を明かさないことで貫ける守秘と、周囲からぞんざいに扱われる可能性との間で、利吉は揺れた。
護衛としてこのひとをつけてくれることは、しかし有り難い話だ。そう考えながら半助の様子を窺う。困ったような、諦めたような顔をしながらも、彼は黙って成り行きを見守っている。
「わたしは構いません。この身でお役に立てるのでしたら、どうぞよしなに」
「ですが…、」
「利吉」
なずなは真直ぐに学園長を見たまま、声だけで利吉を制した。名を呼ばれただけであったが、もう口を開くなという、それは十分な牽制になり、利吉は反論しかけた声を飲みこんだ。
それを見て、ほう、と学園長は唸る。これは面白くなりそうだ、と、ひそかにこころを弾ませた。
「お話にあがった土井先生とは、あなたのことですね?」
ええ、まあ、曖昧な返事をした半助に、なずなは深く頭を下げた。助けてもらった礼と、これから世話になる挨拶を丁寧に述べる彼女にすこし慌てた様子で応じる半助を見ながら、利吉は素早く頭を回して、自らも忍術学園に留まる理由を探した。