二、

 なずなは鏡の前に立っていた。もう長いことそこにそうしている。
 上半身を右に捻り、左に捻り、それから正面を向いて両腕を広げ、体のラインに沿って皺を作る忍装束を念入りに眺めた。薄紫色にほんのりと赤みのさした、あやめいろ。忍術学園唯一だという女性教師から譲り受けたそれを、なずなはすっかり気に入った。いまよりもずっと若かった頃に身につけていたもので、もう着る機会もないだろうから好きに使って構わない、と快活に話すその女性は、いまでも十分に若く見えた。ところが、なずながひとつ瞬きをする間に彼女の姿は腰の曲がった老女に変わっていたので、驚いて隣の半助を見ると、

「どちらがほんとうの姿なのか、だれも知らないんだ」

 と、彼は耳打ちするのだった。
 老女に化けた、あるいは本来の姿に戻った山本シナは、何事もなかったかのように背中を見せて、ゆっくりとした歩みで角の向こうに消えていった。

 ――ここには優秀な忍者が集っているのだわ。

 なずなの父である城主の依頼を受けて、利吉は、だから彼女をここへ逃がしたのだ。忍術学園の名も知らなかったなずなもようやく得心がいく。
 生まれてからずっと城の外へ出ることを許されなかった彼女にとって、外のせかいは、なにを見るにもなにをするにもおもしろく、着物を変えただけでも気分は高揚する。ほとんど男装のような忍装束が、こんなにも体の自由の利くものだなんて。気持ちまで軽くなるようではないか。
 着替えを済ませて、鏡の前でひとりくるくると遊んでいるところへ、半助が迎えにきた。学園を案内してくれる約束だった。

 青青とした葉の茂る太い幹の木の上でひとつ、影が動いた。
 半助が見たことのない娘を伴って部屋を出ていく姿を見送り、立花仙蔵は、彼と同じ学年同じ組の男がすぐ後ろに追いついてくる気配を確かめてから、口を開いた。

「見たか?」
「ああ…、あれがそうか」
「おそらく、な」

 遅れて、彼らの同級生が次次と姿を現した。
 噂の的となっている娘を唯一正面から見た仙蔵と、辛うじて後姿を捉えた文次郎の話を聞き「一足遅かったか!」と七松小平太は大げさに口惜しがる。

 どこぞの城の姫君が人目を忍んでこの学園へ来るらしい。それは、ふとしたときに聞こえてきた話だった。その目的は定かではないが、彼女の来訪自体が生徒に公開された情報ではないことから、諜報の自主訓練には打ってつけであった。何より好奇心が強く、最上級生なりに様様な能力に長けた六年生たちは、教師の目の届かないところで噂の真偽に近づいていた。
 そうして彼らは、遂に噂の姿を視認するところまで漕ぎつけたのだった。

 木の幹に足を滑らせた善法寺伊作が二度目に上へ登ってきたところで、ようやく六人が揃い、現時点で分かっていることを話し合っていると、

「驚いたな、もうそこまで情報を掴んでいるのか」

 いつの間にか利吉が中に交じっていた。
 ――先生方にすらまだ話は行き届いていないはずだけど、と、何食わぬ顔で話をつづける彼に、プロの忍者とはこういうものか、と六人の忍者のたまごたちはいたく感心した。

 六年生の集めた情報は概ね的を得ていた。そこまで知られているのなら、とばかりに、利吉は補足して話す。
 なずなの父は然る城の城主であること、その城を含む三つの城が睨みあう現状、そして、嫡子のいない他ふたつの城が、同盟を結ぶための担保と称してなずなを欲しがっていること。
 下手に隠すよりも、事実を知らせて同情を引けるほうが有利だと彼は判断した。味方は多いに越したことはない。たとえ情が湧かずとも、世にコネクションを広げられる絶好の機会を見逃すほど彼らは間抜けではないだろうとおもった。打算でもかまわない。それが彼女を守ることに繋がるのならば。

「頼むからあの方に無体なことはしてくれるなよ」

 まるで世間話のついでのようなあっさりとした声で利吉は言った。じぶんに集まった六人分の視線を受けとめるその目は、しかし穏やかならざるものであった。
 仕事の中継。父への用事。忍術学園にとどまる理由もとうとう尽きた。箱入り、ならぬ、城入り娘をここに置いて、気が気でないまま、彼はつぎの仕事へ向かわなければならなかった。

「でないと、私を敵に回すことになる」

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