生徒たちのいらぬ詮索をさけるためか、はじめこそ無闇な行動を控えていた彼女であったが、噂がひととおり学園になじんだ頃、おそるおそるといった様子で生徒の前に出てくる姿が頻繁にみられるようになった。期待していたこととはいえ、これには誰もが面食らった。誰もが面食らい、同時に彼女の人となりを知った途端、あっさりと彼女の姿は学園になじんだ。今度は教師陣が感心する番であった。
しかし学園に馴染んだ風景は、彼女一人の姿ではなかった。生徒の前に姿を現すときはいつも、彼女の隣には土井教師の姿がまるで影のように寄り添っていた。
だから、仙蔵が池のそばで彼女をみかけたとき、驚いてしまったのは当然のことと言える。授業の帰りのことだった。なかなか見えない春の気配に皆がやきもきとしていた時期の夕方である。珍しいことに、彼女はひとりだった。気の向くまま散歩をしている最中のようで、目はどこをみるでもなく前を向いているのだった。所在なげなその姿を、仙蔵は見つけた位置から動かず遠巻きに見つめていた。
彼女がひとりでいるのは非常に珍しいことだった。だが、土井教師の影に隠れるようにして歩く姿よりも、ひとりで歩く今の姿の方が彼女には似合っている、と仙蔵は思った。ひとりの彼女は、とてもしっくりくるのだった。本来こんな場所に下りるべきではない人なのだ。
ぼんやりと彼女を眺めていると、突然その姿が消えた。思わず仙蔵は呼吸を止めたが、すぐに彼女が落とし穴に落ちたのだと知って息をついた。彼女のいた場所には、ぽっかりと黒い穴があいていたのだ。容疑者の顔は真っ先に2つほど浮かんだが、別にどちらであろうが関係ないのですぐに彼女のもとへ向かった。覗き込めば、落下した姿勢のまま穴の底に座り込む彼女と目が合った。思っていたよりも深い。
「何をしているんだ、あなたは」
彼女は放心しているようだった。何度か瞬きをしながら、こちらを見上げている。手をさしだしたが、彼女にはそれがどういう意味だかわからなかったようで、しばらく奇妙な沈黙が続いた。
「そこから出たくないのか?」
するとようやく彼女はおそるおそるこちらの手をつかみ、無事穴から引き上げられた。申し訳ありませんでした、と弱弱しく礼を述べ、そのままへなへなと座り込む。立花はいらいらと腕を組んだ。
「ここは競合地域だ。ほら、穴の周りに目印があるだろう。この学園には、むやみやたらに穴を掘りたがる輩が何人もいる。罠を仕掛けたがる奴もだ。土井先生からそんなことも聞いていないのか?」
「・・・申し訳ありません」
「私に謝ってどうする。あなたのことを言っているのだ」
これだから世間知らずの箱入り娘は。
しかし皮肉はあとちょっとのところで飲み込んだ。彼女の気分を害するのを危惧したからではない。彼女がおどおどとした目でこちらをみているのに気付いたからである。
「どうした?どこかケガでもしたのか?」
「いや、そういうわけではないのですが・・・」
彼女はいいにくそうに視線をただよわせた。それではじめて気付いた。仙蔵は彼女を知っている。彼女の素性を、置かれている状況を、すべてを知っている。しかし彼女からしてみれば、仙蔵とこうして顔をあわせるのはまったくはじめてなのだ。
とても奇妙な心地がし、仙蔵は言葉を失った。