困ったことになった。
そうおもっているのは半助だけで、なずなのほうはちっとも構う様子を見せない。それがさらに彼を困らせる結果となった。匿われている身とはいえ、一国一城の姫君が一言、いやだ、と拒否してくれればそれで済む話だったのだ。
「衝立はこの位置で大丈夫ですか?」
「大丈夫……ではないでしょうね」
「では、もう少しこちらに寄せます」
「いえ、そうではなく……。あ、動かすのなら私が」
衝立障子をかるく持ち上げて、半助はじぶんの寝る布団のほうに寄せた。この狭い部屋のなか、少しでも彼女の空間を広くとれるように。
いつもならもうとっくに、彼女は山本シナのいるくのいち部屋に移動している時間だった。ところが頼みの綱の山本先生は、授業で使う教材集めのために遠出をしており今夜は帰らない、ことを、ついさきほど学園長から聞かされたふたりであった。
それならば当然、別のだれかの部屋になずなを置くのだろうと高をくくって「彼女の今夜の宿部屋はどちらで?」 半助が確認すると、学園長はあっけらかんとして 「土井先生の部屋に決まっておるじゃろ」 そう言った。半助はじぶんの耳を疑った。
「……いま、なんと?」
「山本シナ先生ならば護衛も兼ねて姫と一緒にいてもらえるが、くのいち教室の生徒たちではちと不安じゃ。ならば、土井先生、昼間に引き続きおぬしが面倒を見るのが筋というもの」
いやいやいやいやいや!と、つよく反論したい半助であったが、あまりのことに言葉を失った。すると隣から 「わかりました」 と、さらに半助を混乱させる言葉が聞こえてきたので――空耳か空耳だよなきっと空耳だ――内心唱えた言葉も空しく、彼の隣で背筋を伸ばして座る娘は、すす、と膝を向ける方向をわずかばかりこちらへずらして、「よろしくお願いいたします」 うやうやしく頭を下げるのだった。
部屋に戻り、いざ布団を敷こうとすれば、なずなはじぶんもやると言ってきかなかった。ふたり並んで一緒に布団を敷く気恥ずかしさに半助は耐えられそうもなかったので、着替えを理由に彼女をなんとか別の部屋へ押しやった。なずなが帰ってくる頃には二組の布団と、その間を仕切る衝立が用意されていた。
もうどうにもならないのなら腹をくくってさっさと寝てしまおう。
半助は開き直った、つもりになることにした。なずなに断りを入れてから電気を消す。部屋のなかの冷えた空気が、しん、とさらに温度を下げた。寝返りをうつときも少し手を動かしただけのときでさえ、衣ずれのような音がする。たまったものではない。
ええい!、と力づよく両目を閉じて、半助は眠ることに全神経を注いだ。
–
翌朝、目を覚ましたなずながおそるおそる衝立の向こうをのぞいてみたときすでに半助の姿はなかった。
――気を使わせてしまったかしら。
申し訳なくおもいながらも、体は正直なもので、大きな欠伸が出てしまった。すぐ隣から感じるひとの気配が気になってよく眠れなかったのは、なずなも同じだった。しかし断ることなどできようか。
彼女は理解していた。いまいる場所がどこであるのかを。ここは、じぶんの我儘を押し通してよい場所ではない。わきまえなければならない。
身支度を整えて、今日じぶんのすべきことを考える。なにか仕事はあるかしら。
教育実習生という名目で忍術学園に匿ってもらっている、ただそれだけの存在であり続けることは、彼女の本意ではなかった。折角外の世界に来られたのだ、現状の上に胡座をかくのではつまらない。どんな些末なことも楽しみ、努力し、少しでも多くのことを知りたい。たとえそれが、やむにやまれぬ事情から転がり落ちた“棚から牡丹餅”であったとしても。
なずなは、だから率先して仕事をもらいたがった。働くことに対しての好奇心も旺盛であったため、箸より重い物は持てぬとでも言いそうな深窓の姫君をどう扱えばよいものか、当初は少なからず困惑していた他の教員を一転して関心させるほど、なかなかどうしてよく動き、よく働いた。生徒たちとの相性も悪くない。……どころか、ちょっと目を離した間にも生徒との繋がりを広げているようで、先日などは六年生の立花仙蔵と廊下ですれ違いざまに挨拶を交わしていた。これには半助も驚いた。
「一体いつの間に……どこで会ったんだい?」
「いえ、その……」
一年生の教室へ向かう道道、さり気なく話題に出してみた。
そんなに話しづらい話題を振ったつもりはなかったが、彼女は珍しく口籠もる。半助は首をひねった。
「先日、落とし穴に落ちてしまったときに助けていただいたんです」
あそこは競合地域というのですね、勉強になりました、などと言う。
呆気にとられた半助の口から、一拍おいて叱咤が飛んでくるだろうことを予想して、娘は身構えた。
「どうしてそんなっ、……ああ、もう」
手のひらを額に押しつけて半助は目を閉じた。目眩を訴えるように。
「利吉くんの苦労がいまにして解った……」
「先生、」
顔をあげてなずなを見る。目が合えば、にっこりと、彼女は微笑った。
「それは取り越し苦労というものですよ」
だってほら、わたしは今もこうして無事でいます。そう言いたげに、なずなは両手を広げて無傷を主張してみせた。今度こそほんとうの目眩に襲われながら、これはいよいよ目を離してはならぬ、と、こころの内で決意をかためる半助であった。