七、

 今日も授業はいつも通り滞りなく終わり、日課の自主鍛練は文次郎たちといつもより多目にこなした。知らないうちに季節は移ろい、日は少しずつ長くなっている。それから手早く夕飯をすませ、ここしばらく気がかりだった火縄銃の手入れをしに倉庫へ向かった。忙しくて手をかける暇がなかったと言ったら、どこかの火薬狂がそれこそ烈火のごとく怒り狂うかもしれない。
 その時、倉庫の前に立っていたのが件の姫であった。扉に何が描かれているわけでもないのに、神妙な面持ちでじっと見つめていた。声をかければ、
「こんばんは、立花さん」
といつも通りの丁寧な挨拶の後、昼間倉庫の中に忘れ物をしてしまったのだと困ったようにもらす。なぜこの姫が武器庫に用事があるのだろう、と考えたが、熟考するまでもなく、土井教師になにか頼まれごとでもされたにちがいない。
 ここ最近の彼女の仕事っぷりには正直なところ目を見張るものがあった。あちらへこちらへと走りまわり、どんな些細な用件であっても重要機密のように慎重に扱う。そのおかげで、教員たちのみならず生徒たちからの印象も随分変わったようだった。もちろん、いい方向に。たいしたものだ、と彼は肩を竦める。しかしどこか腑に落ちないものがある。 言い表す言葉の見つけられぬまま、彼は持っていた鍵で倉庫の扉を開いた。懐の火種で、倉庫内に順番に灯りをつけて回ると、たちまち嬉しそうな声が上がった。
「ありました。やっぱりここでした。三郎に借りていた手裏剣がなくなってしまって。やっぱりここで落としていたのですね」
 女というものは、きいてもいないのにぺらぺらとよく喋る。それも、こちらが黙っているのに笑顔を崩さないものだから、たまらない。
「探し物が見つかったのなら早く長屋に戻れ。ここは冷える」
「あら、でしたらなぜ立花さんはここにいらしたのですか?」
「火縄銃の手入れだ。そもそも、私は寒さなど・・・」
 そこまで言ってから、は、と仙蔵は言葉を切った。案の定、きらきらと好奇心で光る二つの目とぶつかり、たちまち後悔の波に飲み込まれることになる。

 見ての通りこれが引き金、これが火挟み、こちらは目当て。
 淡々とした仙蔵の説明に、姫は熱心に聞き入っている。構造を一通り指し示した後、仕組みについて簡単に説明すると、彼女はうなった。
「立花さんの説明はとてもわかりやすいです。学年一位の評判は伊達ではありませんね。驚きました」
「成績のよしあしと教え方の上手さは関係しないだろう。ただ下級生を教えるのに慣れているだけだ」
 すると彼女は、ふふふ、と笑う。
「謙遜をしないところ、とても立花さんらしいです」
「褒めているのか。けなしているのか」
「もちろん、尊敬しているのですよ」
「どうも姫様は私をかいかぶっているようだな。文次郎などにはよく性格が悪いと言われるが」
 ふいに、彼女の目が大きく見開かれた。たちまち頬が紅潮して、憤懣やるかたない、といったように肩をいからせる。
「その姫というのはやめていただけませんか」
「ほう、なぜ?」
「なぜって・・・」
 途端、言葉を濁らせた彼女を見て仙蔵はそっと笑った。大方、決して身分を明かしてはならぬと土井教師だか山田利吉だかに口を酸っぱくして言われているのだろう。
 忍として生きる上でもっとも大事なものは、忍術や体術ではない。いかにして情報を敵より多く集めるか、いかにして情報を操作するか、その手管だと彼は信じている。だからこそ仙蔵は文次郎を手玉にとることができるのだし、この姫の思考も難なく読むことができるのだ。
 どうさばくも思いのまま。
 この快感は筆舌に尽くしがたい。
 仙蔵は嘲笑の表情を隠そうともせず、くすくすと声を出して笑った。
「なに、あなたに対する土井先生の扱いといったら、それはそれは見物だ。一挙一動を気にしてかすり傷ひとつすらつけまいとしている。まるでどこぞやの城の姫君のようだ。それを揶揄したまでのことだが、それのどこがいけない」
 彼女は一瞬呆けたような顔をしたあと、さらに顔を赤くして口をとがらせた。
「とにかくいけません。わたしには小春という立派な名前があるのですから、そうお呼びになってください」
「そう言うのなら、姫。あなたも私のことを仙蔵とお呼びなさい」
「・・・はい?」
「五年の鉢屋三郎のことは三郎と呼んでいるだろう」
「・・・たしかに、おっしゃる通りです」
「それから私に敬語を使うのもおよしなさい」
 彼女は首を傾げた。ふざけているのかと思ったが、どうやら本気でこちらが何を言っているかわからないらしい。小さな顎に手をあててしばし思案顔をすると、やがて思い直したようにこちらに向き直る。
「わたしは、いついかなる時も人と接するときは礼節を重んじよと父に教えられてきました。どんな立場の人間であれ、人としての最低限の義務だと」
 それが知らず品性と育ちの良さを滲みださせてしまい、周囲から浮いてしまう一因になっているのだが。しかし思いながらも彼の口は別の言葉を選ぶ。
「あなたの父上は相当学問を修められたお方のようだな。だが、覚えておけ。礼儀も時として壁を作ることがある」
「・・・」
「慇懃無礼というものもある。これは私がよく使う手だが」
 彼女はさらに頭を抱えたようだった。やれやれ。仙蔵はぐるりと目を回す。
「・・・無理にとは言わない」
 聡明なのか馬鹿なのか、本当に理解に苦しむ少女である。
 何よりも解せないのは、あらゆる面で彼女より有利に立っているはずのこの自分が、世間知らずのちっぽけな姫にことごとく調子を狂わされているということである。
 彼はため息をついて立ち上がった。火縄銃を布袋に入れもとあった棚に戻すと、後ろで、あら、という間抜けな声があがった。
「続きはしないのですか?」
「やる気が削がれたのでな」
「まあ、それは失礼いたしました。ではまた今度、火縄銃の打ち方を教えてくださいませんか。半助さんは、わたしにはまだ早いといって教えて下さらないのです」
 仙蔵はそのまましばらく彼女の顔を見つめていた。
 期待に満ちあふれた顔。人を信じ、疑わない心。たとえば、ここで仙蔵が火縄銃をとり、火縄やら弾やらの用意を手早くすませ、その銃口を一直線に彼女に向けて引き金をひくなんてこと起るはずがないと、根拠もなく確信している。
 ばかばかしい、と思う反面、心をかすめていく風がある。
 仙蔵はゆっくりと彼女に近づいていった。足音はしない。習慣で身についているからだ。
 しゃがみこんで視線を合わせると、すこしもかげらない漆黒の瞳が彼をとらえた。
「教えるのは構わない」
 彼女の目が輝いたが、彼は右手を目の前に掲げてそれを制した。
「だがひとつ留意してもらいたいことがある」
 なんですか、と彼女の声はあくまでおっとりとしている。
「私たちは生まれてから決して短くはない時間を費やしてこの学園で学んできた。出自はみな様々だ。商家、武家、農民、山伏、海賊、生粋の忍者の家系のもの。私生児や孤児など不遇の出のものも少なくない」
 一瞬、あの教師のもとで養われている少年の鋭利な横顔が浮かび、彼はやんわりとふりほどく。
「本来であれば野を駆け、じゃれあい、父や母の腕の中で眠る時間を、私たちは他人をあざむき、傷つけ、根こそぎ奪いさる技術を磨いて過ごしている。不幸自慢をしたいわけではない。周りがそう望み、私たちもそれを受け入れている。それが私たちの生き方だからだ」
 そこで彼は一度言葉を切った。深刻な彼女の表情からは、明らかに悲しみの色が見て取れる。
「だが、あなたは?」
 構わず彼は続けた。
「あなたのなすべきことはなんだ」
 ひとつひとつゆっくりと発せられる言葉は、あたかも非情な刃のようだった。次第に彼女の視線が下がっていき、彼はその効果を確かめる。
「あなたは私たちのようにはなれない。だが、あなたには私たちにはできないことができる。今一度よく考えられよ」

 彼女の両手は忍装束を握り締めている。相当な力がこもっているのは皺の深さで明らかだ。しかし下を向いたまま一向に動く気配がない。まさか泣いてしまっているのでは、と、彼は胃のあたりが冷えていくのを感じていた。別にそれでも彼にとっては構わないのだが、後で教師陣に弁解するのは少々骨が折れそうだ。
 そっと肩口に触れようとしたところで、何の前触れもなく彼女は顔を上げた。仙蔵は思わず息をのんだが、それは決して驚いたからではなかった。彼女の瞳には涙ひとつ滲んでいなかった。
 ぞわり、と、背筋に悪寒が走る。彼女のまっすぐな目にとらえられ、動けなくなったのは今度は仙蔵の方だった。

「三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず。生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」

 歌い上げるかのような凛とした彼女の声は、倉庫の暗闇をすみずみまで照らし出すようだった。
「わたしは無知です。そして、この身ひとつ守れるほどの力もない。わたしは誰かの助けがなければこの世で息をすることすらかなわない。ここに来なければわからなかったことです」
 彼女は右手を胸にあて、静かに言う。
「『愚者になりて往生す』という言葉はご存知ですか。法然上人の言葉です。以前、落ち込んでいた時に半助さんが教えて下さったのですが、とても気にいっています。わたしがここで学ぶべきことはきっと、自分の愚かさを知ることなのでしょう」
 最後の方、彼女は不思議な表情を浮かべていた。なんだろう、と思えば、なんてことはない。苦笑い。自嘲。それに準じるすべてのもの。彼女にもそんな感情があったとは。

 気づくと彼女は立ち上がっていて、再び仙蔵は目を開いた。
 しかしそこにあったのはいつものぱっと花の咲くような笑顔で、さらに彼を困惑させることになる。
「お邪魔をしてしまって申し訳ありませんでした。そしてご忠告ありがとうございます。ですがどうか、わたしの家のことはくれぐれもご内密に願いますね。半助さんや利吉にご迷惑をおかけしてしまいますから」
 ぱたぱたと間抜けな音を出して彼女は歩く。でもそれが今は、かえってまともなもののように感じられる。
 戸口のところで、彼女はふと気付いたように立ち止った。くるりと振り向いて、小さく手をふる。
「それではまた、仙蔵」

 どれくらい時間がたったのだろう。先ほど灯した灯りのひとつが消え、仙蔵はふいに我に返った。のろのろとした動作でこめかみを揉むと、頭痛の手ごたえがあり、彼はため息をつく。
 人の気配を感じて顔をあげると、ちょうど長次が戸口から入ってくるところだった。先ほど彼女が出て行ったのと同じところから、彼女とは似ても似つかない大男が敷居をまたぎ、仏頂面で近づいてくる。そして注意しなければきこえない声で、何をしている、とささやく。
「利吉さんに釘をさされたのを忘れたのか」
 どこかで彼女とすれ違ったのか。それともどこかから見ていたのか。どちらにせよ、彼の言葉数にはあまり期待してはならない。
「知るか。向こうが勝手にやってくるのだ」
 仙蔵はあからさまに鼻で笑って見せた。長次は表情こそ変えなかったが、それでこの級友がかなり不機嫌であることに感づいたようだった。
「とんだ面倒を引き受けたものだ、うちの学園長は」
「・・・そうか?」
 彼の言葉尻ははっきりしないので、はじめはそれが疑問であったことに気づかなかったが、仙蔵は眉をひそめた。どうも今日は彼の手に負えないことが多すぎる。
「孫子も仰っている。聖智にあらざれば間を用うること能わず。仁義にあらざれば間を使う事能わず。微妙にあらざれば間の実を得ること能わず。彼女は人の上に立つ素質がある。望めるならば、俺は彼女のような主と生死を共にしたいと思う」
 長次おまえ、そんなにたくさん話せたのか、と、仙蔵はまったく見当なことを考えていた。しかし一方で彼の無表情さに揺るぎはない。
 本当に今日は、不可解なことが多すぎる。
「あんな貧弱な主など、私はご免だ」
 彼は思いっきり吐き捨て、灯りの始末をしに長次の隣を離れた。ひとつ縄をつまんだところで、背後で同じ灯火の消える音をきいた。
「早く風呂に入れ」
 どうやら、今日の風呂当番は長次だったらしい。なるほど、それで彼はここに導かれたというわけだ。
 肩をすくめ、外に出ようとしたところで、仙蔵はふと動きをとめた。そしてとても小さな声で、ああ、そうか、とかすかに呟いた。
 立ち尽くす仙蔵を見て、長次も歩みを止めた。ふり返り、怪訝な視線を彼に向けている。
「あれをてごめにすれば、私も一国一城の主ということか」
 物騒な、それこそ山田利吉がきいたら一瞬で頸動脈を掻き切りに飛んできそうなことを言った仙蔵は、にも関わらずあまりに所在なげな表情を浮かべていたので、長次は掛ける言葉を失った。

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