鬼のこころ人しらず

「おとながうそをつくのはね、みんなしらないからさ」

 外聞をはばかるように声をひそめ、老婆はいいました。年老いた目を、このときばかりはぎらぎらと力強い輝きにみなぎらせて。

「お山には鬼が巣くっていて、ときどきふもとまで下りてきては、耳に入るうそを指折り数えている、にんげんの世界にはうそが溢れているから、そろそろがまんの限界じゃあないかね。可哀相に、おとなのうそがこどもまでころすのさ。奴らはどんなうそもそれと見抜くしどんなうそも嫌悪する、怒った鬼は、にんげんたちを村ごと焼きつくしてしまうだろうよ」

 時代錯誤の紙芝居屋が物珍しげにあつまったこどもたち相手に熱弁を振るう様を、無視して通り過ぎるでもなく、見咎めて焼き払うでもなく、語部の言葉がぎりぎり判別できる程度の距離をもって、木陰で涼などとりながら黙して耳を澄ませている。
 珍しい光景だった。木枠の紙芝居が、ではなく、だれよりも深くひとの心に巣くう悪意を解するこの方が、人間が人間の都合の良いように紡いだ物語を静かに受け入れていることが。

 いよいよ白熱する語部の声は、鬼を怒らせた人間たちが自らの非を認めて反省し、心をひとつにして鬼を退治する場面に差しかかる。馬鹿みたいに理不尽な話だと思った。それでは鬼は何のために存在したのか。ただ人間に実害を及ぼさず少しの危機感を与えて滅ぼされるためだけに?……ああ、ほんとうに。馬鹿げている。
 きっと彼の方も同じように考え、いまにもあの語部が紙芝居ごと炎に舐めつくされるのではないかと身構えたが、しかし低俗な声は途絶えることなく耳に届き続けるのだった。ハオ様がいま何を思ってこの場所に立っておられるのか、私には少しも解らない。

 残暑の厳しい夏の終わり。熱を帯びた公園。色濃い緑は低い白柵を乗り越えて遠慮なくアスファルトのうえに手足を伸ばす。最初に足を踏み入れたとき、その場所に自分と自分の従うべき方に害するものがないか、あるいは突如として前述のものが現れたとき如何にして応じるかの判断材料を得る手段として周囲を窺うのとは異なる目線で、だらしなく辺りを見回した。

「退屈かい?」

 こちらを一瞥もせずに私の行動を指摘できたからといって、なにもこの方の背中に眼がついているわけではない。私はそれをしっている。
 一体それはどんな形どんな色となってこの方に届くのだろう。言葉という心の声として?それともこの眼に映した映像そのままに?
 私は、それをしりたかった。

「寓話というのもなかなかどうして侮れないね」
「……そうですか?私にはひどくエゴイスティックな話に思えます」
「それはきみが鬼の味方だからだろう?」
「ハオ様は鬼ではありません」
「本心からそう思っているのはきみと葉くらいだよ」

 言って、穏やかに微笑んだ。
 あたかも同等であるかのように仰ったものの、比重は間違いなくあちらに傾いている。ハオ様にこんな顔をさせられるのはあの方をおいて他にないだろう。最後の最後にハオ様をお救いできるのだって、きっと私ではなく――。

「そうでもないさ」

 一瞬、何を言われたのか解らなかった。そのたった一言を頭のなかで反芻し、ようやく言葉の意味を呑み込む頃には、心臓がひとりでに踊り出したかのように強く鼓動を打っていた。
 ――拾い上げてほしい心と、そうではないものを、この方はかなしいほどに理解している。
 他人からどんなに否定されてもハオ様のお傍を離れはしまいと、胸に掲げた信愛に、救われているのはいつだって私のほうだった。

 そろそろ帰らないとラキストが迎えに来るかもね、おどけるように呟いて、闇色の瞳が振り返る。
 夜をあつめて、握り潰して、ひとのかたちを造ったならば、きっとこんな姿をしているのだろう。ちっぽけな卑下心をこどものような空想で打ち消した。

(2007/09/13)

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